2013.3〜大学受験失敗からの家庭崩壊期①

はてなブログというものの存在は知っていたが使うのは初めてだ。

どうも、はじめまして。社会人の沼にハマったぬまこです。ブログ名をオシャレにしたく100年ロマンスにした。昔好きだった舞台の中で流れていた曲だ。分かる人はとてもわかる題名だと思う。

現在私は新卒で入社したIT企業を2年目の始まりで退職し、他会社へ転職した。こんなコロナの時期にタイミングよく転職できたと、運に感謝している。

そこで今回は一つのきっかけとして、自分を見つめ直すために私のぐちゃぐちゃな過去のことについてぐだぐだと書いていこうと思う。

 

私は大学受験に失敗し1年浪人して大学に入学した。

2013年3月、当時高校3年生の18歳。自分の進路が決まっていないことに変なプライドが邪魔をして私は高校の卒業式に参加することができなかった。私の高校は卒業式に制服でなく袴を着る風習があったので、当時高校生の私は進路が決まってないにも関わらず親に袴代を出してくださいと言えなかった。1人だけ制服で参加するなんて惨めすぎて当時は考えられなかった。

式当日、目覚めたら13時過ぎで式はとっくに終わっていた。担任の先生や友達から大量のメール、鬼電がきていた。それでもしばらくは全てを無視して過ごした。

数日後、担任の先生から卒業アルバムを取りに来るよう連絡が来た。あまり覚えてないがごめんねと一言言った気がする。全く責められなかったのが不思議だ、あんなに迷惑をかけたのに。

 

その後4月から親に無理やり入れられた予備校へ入学。そこでもクラス分けテストに行かなかったり授業をさぼりまくったりなかなかの問題児だった。勉強なんてしたくなかった。その時はグランドスタッフに憧れ、エアラインの専門学校に行きたかったが親に言えずに過ごしていた。5月末あたりには予備校にも行かなくなった。私が予備校に行かず引きこもるようになってから両親の仲は最悪になり、母は当時高校二年生だった妹を連れて家を出た。大嫌いな父との2人の生活だったが父は毎朝4時に荷物を取りに帰ってきてそのまま顔も合わせず車で仕事に向かっていた。きっと父は父の実家で祖母と暮らしていたのだろう。母の実家では母の祖母と母と妹、父の実家では父と父の祖母、そして自宅で私1人。母方の祖母が心配してたまに来てくれていた。

後々祖母から聞いた話だが、私が1人で家にいる間、上半身しかない若い男の人が私と2人でずっとリビングにいたそうだ。今にもあっちの世界へ連れていかれそうだったらしい。きっと私のマイナスな気持ちに引き寄せられてどこかから連れてきてしまったのだろう。今考えるとゾッとする。祖母は霊感がある人なので視えるが私は見えない。はず。少なくともその時は見えなかった。

 

そんなこんなで季節は7月になり、母と妹、父も家に帰ってきた。予備校に無理やり復学?させられた。正直地獄だった。夏季講習も勝手に申し込まれたが一度も行かず母方の祖母の家に入り浸って祖母が旅行でいない時はジャニーズの出待ち入り待ちで1日を潰した。その時周りには大学1年だよ〜夏休み暇なの〜と適当に嘘をついていた。どうせバレないからいいかと思った。

 

つづく

 

2013.8〜2013.11 予備校中退からの大学受験へ

2013年8月、予備校の夏季講習には行かずとも在籍はしていた。一度も行かずその年の夏はひたすらジャニーズを追いかけていた。おかげで何度も何度も会うことができてコンサートにも入って、今考えると本当に親不孝第一弾だった。でもその時の私にはそれしか生きてる意味が見出せなかった。

2013年9月、正式に予備校を中退した。不思議とこの先どうしようという不安はなかった。とりあえずバイトからと動き始めた途端事件は起こった。

2013年10月、当時私はガラケーiPhoneの2つ持ちで、通話代がかかるからと履歴書の電話番号を全てガラケーの番号にしていた。ある日夜中非通知から電話がかかってきた。24時間営業のファミレスも受けていたので電話に出ると男の声でもしもし、○○ちゃん?と名指しで言われた。気持ちが悪く咄嗟に違いますけどと返すと卑猥なことを山ほど言われ怖くて電源を切って寝た。

次の日起きると非通知から30件ほど連絡が入っていた。怖くて怖くて鳥肌が止まらなかった。この番号を知っているのはバイトの面接を受けて履歴書を出したお店の人間だけなのだから。

履歴書を出したということは住所も本名も何もかもバレている。親との関係が悪く相談できなかったので家から一歩も出ることができなくなってしまった。

何も知らない親はまた引きこもりかと私を叱責した。殴られて蹴られて髪の毛を掴んで引きずり回された。部屋の中はめちゃくちゃで警察が来る事態にまでなった。

そこで初めて泣きながら全てを話した。とりあえずガラケーは解約、自宅近辺の見回り強化としばらく外出時は車でということになった。

その後、今後大学に進学するかの話し合いになった。私は咄嗟に知り合いが言っている大学の名前を二つ出した。その時点でもう受験日まで1ヶ月もなく、出願もギリギリだったが親が出願の書類を揃えてくれて実質2週間ほどの受験勉強で2つの大学に合格した。2週間ほどと言っても朝4時に起き勉強し夜2時に寝るという毎日、わりとキツかったが18歳だから耐えられた。

1つ目の女子大の受験日の2日前、好きなアイドルの映画の試写会と舞台挨拶があった。友達に誘われ、前から3列目だったので行く以外の選択肢はなかった。親には外で勉強詰めてくると嘘をつき舞台挨拶へ向かった。その時の罪悪感は今でも忘れられない。

女子大の受験日、私だけ私服で私だけ茶髪だった。しかも1番前の1番真ん中の席に座らされて、とても目立っていたことだけは覚えている。受かっても絶対この大学行きたくねぇなと思った。

後に通うことになる2つ目の大学の受験の日は何も緊張しなかった。受かる気も受からない気もしなかった。ただ無。だった。試験が終わった後なか卵で初めて1人で昼食を食べたことだけは覚えている。

2013年11月、どちらの大学にも合格し共学である後者の大学を選んだ。これでやっと平和な日々が戻ってくると思うとホッとした。それからは好きにバイトを3つ掛け持ちしたり髪を染めたり東京へ旅行したり、好きなことをして大学入学を待った。

 

家庭崩壊①ひとまず終了